奥山奈津子 合格体験記 

2017-03-26 (Sun) 14:36[ 編集 ]
なつこ


昭和薬科大学附属高校3年の奥山奈津子です。
琉球大学医学部医学科に合格しました。

私は前期も琉球大学医学部医学科を受験しましたが落ちてしまいました。センターも85%しかとってなかったので前期が勝負だとおもってセンターおわったあとから頑張ってましたがダメでした。後期は倍率が15倍くらいだったのでもうムリかなと思っててかなり息抜きしてしまったけど、気持ちだけは諦めなかったです。英語は好きだったので小論がんばろうとおもって医歯薬系の英単語を主に覚えました。あとじぶんは、面接はあまり圧迫を感じない人だったので前期のために対策してたやつでそのまま後期もいどみました。
まわりのお友達がたくさん受かっていってたのでちょっと悲しかったですけど、後期に合格できてとってもよかったです!!



自分は高3までテニス部にはいってて、学校の練習はあんまりいってなかったけど笑、スクールに通ってたので疲れて寝てしまうこともたくさんありました。自分に弱いのですぐ寝ちゃうから、テスト期間とかは寝てしまってしょっちゅう後悔することばっかでした。笑 でもそういうときはやっぱり眠気とたたかいながら頑張るよりは寝てから気持ちをきりかえて勉強するのがやっぱりいいのかなーって今は思います。
あと自分はほんとに自分にあまくてお家でお勉強できる人じゃなくて、お家帰ったらテレビみたりダラダラしてること多かったんですけど、そーゆータイプのひとは塾にいてまわりの人が勉強してるからやらなきゃ!って気持ちの時に自分のやることをおわらしちゃえばそれでいいと思います。



岡本さんの数学はたまに難しすぎてついていけなかったけど、二次試験のためにとってもためになったとおもいます。復習をしっかりして岡本さんの授業についていけたら数学は大丈夫だと思います。

座波さんの英語は高2の頃に受けはじめて高3の先輩方と一緒に授業を受けていたので、先輩方からも刺激を受けながら授業ができてとてもためになったとおもいます。高3になってからは個別でやってました。英作とかの添削をしてもらってとても役立ちました。

上江洲さんは、授業はなかったけど進路の話とか面接の練習とかをしてくれてとても助かりました。自分は後期のギリギリでうかってると思うので面接は満点近くとれてると思うので、感謝してます。


アゴラは少人数で自習室とかも他の人がやってるから自分も勉強しなきゃっていう気持ちもあるし、その中でいろいろ自由で自分にとってすごいやりやすい環境でした。お友達とお話したりするのも楽しくてみんなで高め合えたと思います。
ほんとうに、今までいろんな面で支えてくれた家族、友達、先生方、後輩たちにとても感謝したいです。ほんとうにありがとうございましたm(_ _)m



安里泰貴 合格体験記

2017-03-10 (Fri) 10:33[ 編集 ]
泰貴


私は、沖縄県立開邦高校出身の安里泰貴です。
神戸大学法学部法学科に現役合格しました。

簡潔にですが、「現代文」という分野について書きます。
上江洲さんのおかげで私は、「現代文」への取り組み方を学ぶことができました。
そこで、個別指導を通して得たことを少々、、、。

現代文への取り組み方で大切なことは4つあります。(記述がメインだが、マークでも重要)

1:筆者が人間ということの前提意識
2:筆者の主張を明確に判断すること
3:設問者の存在の認識と善意ある作問
4:文章化された答案の記述

順を追って説明します。

まず1ですが、愚問ですみません笑
しかし、
大前提にこのことがあると認識して初めて、2の内容へと繋がります。

我々は意見を述べる時、段階を踏んで意見を述べます。
話は逸れますが、日本語というのは、後ろに行けば行くほど主張を述べますが、
英語では先に主張します。英作文なんかでは意識するポイントです。
つまり、評論文においての主張というのは大抵文の最後にあります。
また、我々は、具体例を用いることで主張したい内容をより相手に伝えやすくします。
ここまでは、現実社会での話。

では、評論文ではどうなんでしょう?まぁ、大抵基本的には同じです。
考えてみれば、筆者も日本人ですしね。
このことを意識すると、
文章をただ字面のみ追う解き方は、ナンセンスということになります。
もちろん、頭の中で筆者の主張を想像してはダメです。
なぜなら、筆者は既に、本文に自身の主張の根拠をちりばめているわけですから。
具体例って大事なんです。だから、筆者の主張を明確な根拠をもって判断しなければなりません。
これらが、1と2の説明です。

次に3です。筆者はあくまで筆者なので、設問を作っている人と区別されます。
では、設問者はなぜそこに傍線やら破線をひくのでしょうか?
これは、上江洲さんが個別指導でよく私に投げかけていた質問でした。
「受験生への嫌がらせ?」それとも「適当に?」・・・。
このことって普段まったく意識しないことだから、私は頭抱えてばっかりでした笑
もちろん、設問者のみが知る答えなんですが、
きっと「善意」があってこその、受験生への投げかけであると捉えるべきでしょうと教えてもらいました。

「ここまでの文の中での筆者の主張を、受験生の諸君は分かっているかな?」的なね。
もしそうであると仮定した時、
ただ傍線部付近の文字を埋めているだけの受験生は、
本当に筆者の主張を理解していると読み取れますかね?
私なら、「そんな子は読めていない」という烙印を押しますね。(偉そうにごめんね。でも、もう受験生卒業したから偉そうにさせて笑笑)でもまぁ、文字埋めるだけで答えと捉える大学もあるかもしれませんがね。

つまり私が言いたいことは、
設問者はもちろん何かしらの意図があるからそこに傍線部を引くのであり、
少なからず、本文理解へのアプローチということです。


次に4です。これは、まぁ見落としてますね。
自分の解答をまじまじと見ることありませんしね。
でも、一応、記述の解答ということは、受験生の国語力(どちらかというと、文章作成力?)を見てます。
これは、特に何か対策とかはないですが、一回書いた自分の解答をもう一度読み直すということをしてみてもいいと思います。
主語と述語の関係とか、接続詞とか、あと誤字脱字。
とりあえず、日本語として成立する解答をしないと、たとえどんなに要素を捉えていても、一発でアウトです。

以上が、私が神大入試本番まで気をつけていたことです。
一応、先に伝えておきますが、私は、国語大の苦手でした恥笑 上江洲さんに感謝です。でも、受験生でここまでのこと意識してる人いないと思います。(と信じたいです)特に理系の方。


ちょっと脱線します。理系志望の方って、基本国語勉強してないと思います笑
現に私も高3になる前まで理系でしたのでちょっとだけ分かります笑 理系の端くれです笑
でも、理系「だからこそ」国語大切ですよ!!受験で考えた時、理系で国語強い人は本当につよいです。

例えば、センター試験で、理系なのに国語8割取れたら、もう最強です。
私の周りの友人(ごめん!!勝手に話して笑)は、理系科目完璧でも国語で苦労してる人大勢いました。

しかも、それ、現代文分野でつまづく人が多かったです。
古漢は記憶力とかみたいな感じだけど、現代文は暗記することほぼないですから。
(そういう私も国語は現代文全然出来ませんでした。)ここで国語出来たら、理系の人は他を圧倒できます!!

そして、二次試験。理系の方でも、ある一定の大学になると国語入ってきます。
もし、これを読んでいる理系の方で、二次試験に国語あるからと
、上のレベルを諦めている人いるなら、もう少し考え直して欲しいです。
だって、国語(特に現代文)は、筆者の意見をきちんと抑えるということを怠らなければ、
絶対他の受験生に負けないし、逆に、理系科目が多少苦手でも(どの程度かは分かりませんが)国語でカバーできたらマジ勝者です!!東大京大目指して!(誰目線???)


すみません脱線しまくって。最後に、答案用紙が一種の面接シートということを伝えたいです。

これは、国語はもちろんのこと、実は他の科目でも言えることです。
医学部系を除いて、大学入試は面接がありません。まぁ嬉しいことですが、
しかし、ただの試験だけで合格不合格決まるの嫌じゃないですか?
私は少なからず嫌です。だって、自分の志望校への熱意を伝えたいもん笑

そこで登場 解答用紙です!!
国語だったら、「俺という受験生は、こんなにも筆者の主張が読めるし、しかも、設問者の意図も分かります!そして、美しすぎる日本語能力!!こんな生徒欲しくない!?!?」ってアピールできますね笑

数学も、「こんなに論理立てて数学を記述できて、しかも簡潔にものも言える。」とね。

英語だって、「英語長文の理解力ぱなくない!?しかも、英作文なんか、まじネイティブだろ!?」とまぁこんな感じ笑

とりあえず、センター試験は違いますが、二次試験というのは、自分をアピールする披露宴的なものだと私は思います。もちろん、答えが当たっていること大大大前提ですよ!


現代文のことのみのはずが脱線しまくってすみませんでした。
ただ、受験というのは、辛いことです。それをいかに自分で楽に楽にリラックス出来るかがカギです。

ちょっと冷たいけど、逃げてもいいんだからね?


では、これからも頑張ってください。

京都のうぃとげんしゅたいん先輩 哲学カフェ0305

2017-03-04 (Sat) 11:52[ 編集 ]
50も中盤を過ぎようかという齢になると安否確認のメールがちらほら届きます。
だから、久しぶりに連投しています。
生徒には、特に中学1年生の若い人には、読む人を必ず意識して文を書いてください。
と言っているのですが、僕は精一杯の強がりで独白という逃げ道を準備して始めようと思います。

文を認めるという行為にどうも恥がついてきて困ります。
ついの、この前まではそんな感じはなかったのに。
歳のせいかなあ。

沈む太陽は背中で気づかずにある方がいいです。
目の前に向き合う、、、そう言えるのは若さの傲慢。
隠れようとするものには、気づいても気づかないふりをする。
これが大人の嗜みというものでしょう。

誰かにせっつかれて生きているというわけでもないですが
誰かにせっつかれているということで虚空の闇を覗かずに済んでいる気もします。


誰かにとって何者かで居させてもらえる間は、ありがたい「時」の栄光に浸りましょう。


あえて僕らは、ことさらに他者との「間(はざま)」を作ることが必要なんだとつくづく思うことがありました。


先日、北里大学の大石敏広先生にお越しいただいて
http://kerid-web.kitasato-u.ac.jp/Profiles/79/0007844/profile.html
http://clas2016.kitasato-u.websyllabus.jp/node_1285/101
哲学カフェを開いてもらいました。
というか、生徒の試験期間中ということで実際は
濃厚なエスプレッソ状態でありました。。。


ウィトゲンシュタインがどんな人なのかということにはあまり食指は動きません。
ただこう言われたらどうでしょう。

「ウィトゲンシュタインは説得の倫理をやろうとしてたと、僕は解釈してるんです」

僕はかの人が何者であるかには興味がありません。
でもこの言葉を目の前に見た時、そう、言葉を視る。のです。
過去に押し流される音の波ではなく、眼前に世界を留めるのです。


思いがけず
大学生のかつての僕が
そこに座っています。


冬の京都の四畳半で、
音を吸い取るように途切れなく落ち続ける雪が窓向こうにぼんやりと見渡せます。
日本酒とウイスキーのちゃんぽんでカニのように赤くなっている僕が
顔をぽっぽぽっぽさせて、「うぃとげんしゅたいん先輩」の言葉を拾っています。


「なあ、ウエズ~ 大阪のおばはんにさあ、納得してもらうまで説得するのが倫理と思うんや。そこの関係性が大事なんとちゃうかなあ」

黒縁メガネの蝶番にセロハンテープがぐるぐる巻きつけられ、かろうじてその体を保っています。黒いズボンの折り目は一本すっと通ってスッキリしており、テカリが年季を感じさせます。




言葉は雄々しくあるより、つながりを求めてよたよたしているぐらいがちょうどいい。


前者は名詞による固着であり、そこに留まり、「魅(見)せる」という意味では強力です。
だから一つにまとめやすいし、政治的であり、権力との親和性が増す。
後者は名詞を動詞化する「働きかけ」にこそ意味を見出します。
現実から乖離し、独立して言葉はあってはならない。
現実に寄り添わせる不定の関係を請け負う覚悟が「私」に必要になります。


なぜ人を殺してはいけないのか。
かつて巷を賑わせた問です。
答えが本当に必要なのでしょうか?
現実的に意味のある問いかけなのでしょうか?
僕には全く無意味なことに思います。


ここでの人は、考える主体だけを無関係にして成立することはありません。
なぜ私を殺してはいけないのか。
私は考える主体でもあれば他者の眼差しの対象でもあります。
決して観念的的存在なのではなく
具体的肉体をまとった時空間の存在なのです。


悩むことを放棄してはいけません。
それこそ悩みに取り憑かれます。

悩んでいるからこそ、「人」と関われるし、次のステージへ歩をすすめることが出来ます。

困っている人がいるから手を差し伸べることが出来ます。
私の困惑は、ただ私一人を置き去りにします。
困っていることをそう明らかにしてみることで
人の世はたどたどしくではありましょうが、私を仲間にしてくれます。


道徳ジレンマの問題で「トロッコ問題」と言うものがあります。
トロッコとは小型版貨物列車です。

「線路を走っているトロッコが制御不能になった。このままトロッコが進むと線路前方にいる5人の作業員が死んでしまう。このとき現場で、この状況を目撃したAさんは線路を切り替えることのできる転轍機のそばにいた。切り替えれば5人は助かるが、切り替えたほうの線路にいるもう1人の作業員Bさんは死んでしまう。手段は転轍機しかない」


悩みます。
その問から答えを導こうとする限り悩みは増していきます。
しかし
問を設定した設定者自体を思考の対象とした時
得も言えぬ違和感に襲われます。

そもそも
人間を頭数で抽象化していいものなのだろうか。

僕には「その人」= 私 のあらゆる属性を剥ぎ取ることに
現実的な問題の解決はないと思います。

答えを
早く
正確に
導くことに評価を与えてきた教育に問題があると思います。

人間は
共生
協働
の集団ではないのでしょうか。
1 で生まれ生きることは原理的に無理です。
私とあなた(≒私 …… 私のようなあなた)に人間の人間たるゆえんがあると思うのです。


倫理は現実的な問題を考えることで
現代的要請に応えることが出来ると信じています。


そんなことを示唆してくれた
大石先生には感謝しています。


さあ、明日考えることを楽しみましょう。






哲学カフェ




友垣へ

2017-03-01 (Wed) 04:53[ 編集 ]
アゴラ水槽





やっとひと山越えたというところでしょうか。


二次試験が終わってすぐ電話をくれた生徒もいました。

「先生、二次試験無事終わりました。お礼がしたくて電話しました」
「それ、合格してからにしようよ。悔いなくやりきったわけね?」
「いえ、悔いがないって言ったら嘘になります。国語集中してできたんですよ。20分余りましたよ」
「すごい集中力だね」
「数学で終わったと思ったんですが、、、このままズルズルいったら、先生に失礼になると思ったので、気持ちを入れ替えたら、殊の外うまくいきました」
「良かったね」
「落ちてると思いますけど。。。受かりたいです。先生。。。」


生徒の声は震えていました。


僕は生徒と、入試問題を解くのがとても楽しいです。
僕の「為事」はこれしかないなあと思う今日このごろです。

その生徒とも

出題者はなぜそこに傍線を引いたのか?
出題者はどんな力をわれわれ受験生に問うているのか?

そのことを指針として問題を解きます。

複数の解答例を並べてその違いを検討するところから始めます。

大概の生徒は驚きます。
答えは一つではないんだ。


いえいえ、それは違います。
大学側が提示する解答が「答え」です。

だから

なぜ傍線をそこに意図して引いたのか?

から考察して
出題者の真横に立ち、作者の地平を眺めることをせねば
出題者の求める「答え」には到達しないということです。


さらに
そんなことを繰り返していると
作者の、問題文の、地平が「構造」的であることに気づくわけです。


構造は流されないための抵抗です。
あるいは負荷と言ってもいいでしょう。


私たちは流されて大切なことを見逃してはならない。
おおかた
大切なことは流された後になって知ることになります。

後のまつりです。

まつり、つまり祀った後ではもうどうにもならないんです。


生きているうちにそれをせねば。





アゴラ国語は今年も
後のまつりにならぬよう

急がばまわれ

よんなーよんなー(ゆっくりゆっくり)歩を進めていきますよ。


よちよち歩きを適切にしたからこそ
僕たちは歩くことも走ることも出来ると思いませんか?


足腰は強くしてこそ

いざという時の力になります。


だからこそ
かける時には
時間をかけねば。


焦りなさんな。


若き
友垣よ。



3階教室
3階教室



5階 エスプリ ゼミ室
5階エスプリゼミ室

下地鵬正(ゆきまさ) 合格体験記

2016-05-03 (Tue) 02:44[ 編集 ]




「ディープインパクトな挑戦状」



僕はアゴラに3年間いて、勉強でたくさんのことを教わったというよりは、自分の中では、人間としてたくさん成長させてもらったと思います。結局、社会に出て自分の価値を示すには、自分の人間性であったり、努力の仕方、その姿勢、物事に対する向き合い方や考え方などを一生懸命高めていくことが重要だと思います。


これらの程度が低いと、あまり魅力的な人間とは言えないです。才能や環境に甘えて、ただなんとなく成功したやつに対してそんなに価値を感じません。苦しみながらもめげずに頑張っているやつの方がよっぽど尊敬できます。


僕は、幸い、あまり才能がなく、不器用でもあったので、いつも壁にぶつかって、その度にどうしようか考えることが多かったです。特にここ3年はそういうことばかりでした。だから、ものすごく鍛えられましたし、今までは全然分かってなかったと気付かされました。そういう作業を繰り返し、繰り返しやっていくうちに、もっと先の深みが段々見えてくるようになったし、自分にしかない個性みたいなものがわかるようにもなっていきました。人の苦労も、肌で感じるようになりました。


僕がこういうふうに成長できたのもアゴラというより上江洲さんがちゃんと生徒のことを考えているからだと思います。上江洲さんは会う度にアゴラの生徒にとって何をしたら良いのかとか現状の問題をどうすれば良いかを常に考えて、いつも悩んでいました。そういう姿は現役生とかは見ていないかもしれませんが。自分のことしか考えてなかったら、わからないのかもしれません。よくアゴラの国語の授業中の上江洲さんの雑談が多すぎるという声を耳にしましたが、そういう人は自分に問題があるかを考えていないと思います。授業を受ける前に少しでも古典単語を覚えていくだとか文法を仕上げていくだとか詩について深く考えてみるだとか、そういう努力もしないで、ただ漫然と上江洲さんに頼りきっても何も学べないと思います。


今日何か掴もうという姿勢で常にのぞまないといけません。


そもそも文章を読む力をつけていくためには最低限の文法なり単語なりの知識をつけて、その論理を正確に読み取り、書き手の極めて一意的な意図を探らなければなりません。自分本位ではダメです。相手の言いたいことをとことん客観的に論理の整合性が取れた形で読みとろうと頭をひねって考えることが大事です。その積み重ねが国語力を向上させていくと思います。


だから、授業を受ける際にある程度の緊張感を持って古文なり漢文なり現文なりの文意を読み取ろうと試行錯誤を繰り返していないと、その時点で質の高い授業なんて出来るはずありません。上江洲さんの雑談が増えていくのはこうした姿勢が見受けられないときだったりします。



アゴラあるあるについてはこのくらいにして、最後に努力について話して終わろうと思います。


受験生はみんな少なからず努力をしていると思います。でも、その方法は自分で考え抜かなければならないと思います。他人に頼ってたらどこかで他人のせいにできます。自分で決めることが大事です。


そして、それを継続して行う際に気をつけてほしいのが、その質を自分の求める完璧なレベルに、最高のレベルにまで、妥協せずに追求することです。どうしても同じようなことを続けていくとマンネリ化して思っていた成果を得られないことがあるからです。自分が完璧だと思ったレベルに達したら、またより一層高いハードルを課していけばいいです。これは言うのは簡単ですが、実践するのは相当きついです。でも、きつい経験をしないとわからないことの方が多いので、できるだけチャレンジしてみてください。きつくて耐えられなくなったら、ちょっと一息ついて、またやればいいです。時間は上手に使えばいくらでも増やせます。自分の目の前の状況を少しでも良くしようと努力することが自分の人生を面白くすると思います。


ぜひ、この一年間、自分は何をすればいいのかとことん考えながら頑張ってみて下さい。やり切った後に何か掴んでいると思います。