ふと、思い出すこと。

2009-06-30 (Tue) 18:15[ 編集 ]

最近ペットボックスによく行く。
生まれたてのミニピン(ミニチュアピンシャー)を見て以来
はまってしまった。

 

昔、僕が中学生の頃
我が家にはリズという名のトイプードルが居た。
白い毛の愛くるしい小犬だった。
飼ったきっかけは末の妹の登校拒否で
父母が妹を思って慰撫を期待したのかもしれない。

 

それ以上に彼女は我が家の人間をいろんな意味で
つなげてくれた。
その後、妹は父母の期待通り登校するようになる。

 

僕は家に帰るのが楽しくてしょうがなかった。

 

今思うと誰よりも彼女を欲していたのは父親だったのかもしれない。
病気がちで社会生活から距離をとるのに反比例するかのように
僕ら兄弟は成長とともに社会へと出て行く。

 

寂しかったんだなあ。

 

この年になって気づく親の真情である。

 

その父の死。出棺の時、リズは泣いた。
離れた部屋の2階ベッドの上で弔問客から遠ざけられたリズは
出棺の釘を打つ瞬間に
愛すべき父との別れを見た。
犬にも慟哭がある。
そんな悲しい遠吠えだった。

 

程なくリズは生涯2度目の家出をした。

 

僕たちは探すのをやめた。

 

最後は好きにさせてやりたかった。

 

15年、一日の休みもなく
人間様に仕えてくれた。

 

あれから20年経つというのに
いまだになにやら浮遊する
リズとの事である。

 

代わりは居ない。
かけがえのない存在だからこそ
僕は
僕なりの仕方で
ぐるりを大切にしたい。

 

 

慰霊、その日

2009-06-24 (Wed) 19:17[ 編集 ]

64年前、その日に何が起きていたのか知らない。
ニュースソースとしての共感力を保ち得ない。とか

 

でも僕はただ、その日を「持てる」ことが幸せだと思う。
南に向かって目を瞑り、手を合わせ
その行為が今までもこれからも継がれていく。

 

解釈は文脈の色合いでどうとも変わる。

 

しかし「行為」は
行いそのものの中で
沈潜し純化していく。
ただそれだけが独立して在る。

 

私たちは
その日を持ち
その行為を続ける

 

そこに
「慰霊の日」の持つ
本当の力が潜在してると思う。

 

今日

2009-06-24 (Wed) 06:43[ 編集 ]

慰霊の日

妻と娘は朝から対馬丸記念館に行った。
僕はというと、時折流れるニュースを見やっては
家でごろごろ。


12時に泊港から低く重い汽笛の音が開け放しの窓から
生暖かい風と共に流れ込んでくる。
僕は目を瞑り
娘たちも恭(うやうや)しくじっとしている。
妻は手を合わせてたようだ。


NHKでは式典を放送してた。
小学生の詩の朗読や
知事、総理がいつもとかわらぬ体(てい)で
いつもと変わらぬ口調で何やら話している。


やはり僕はごろごろしてて
20分の放送終了と共に
いわゆる「慰霊の日」も終わった。


昼寝をしたあと
家族でペットボックスに行き
子犬や子猫のしぐさに気を安めた。


目的はベタを買うこと。
娘たちは名づけを競い
彼らとのこれから始まる生活に興奮している。


いろんな命が
見える世界にも
見えない心にも
互いに揺さぶりあって
肩を寄せ合い生きている。


ありがとう。
それしか言えない
僕にとっての「今日」だ。

 

 

嘉手納基地

2009-06-19 (Fri) 04:06[ 編集 ]

先日、基地の町「嘉手納」の道の駅に行って来た。
嘉手納基地が一望できるロケーションで
今は世界最強の「F22ステルス戦闘機」も拝める。

僕の感想は
以外に「小さい」というものだ。
かなり不謹慎な発言だということは重々承知だ。

その先が見えないほど「広大」な基地をイメージしてたから
視界に収まるということが意外だった。

ただ極東における「質」は群を抜いた基地であることに変わりない。


僕の感覚は「中途半端」ということに収斂される。


アメリカ本土には広大な基地が嘉手納の何倍もの規模で存在するだろう。
どんなに極東の拠点といっても沖縄島の面積を考えると
物理的な限界があることは否めない。

中途半端は何も大きさだけでなく
機能もそうではなかろうかと危惧する。

テロ支援国家が万が一にもここを爆撃すればひとたまりも無いであろう
どうにもならない「中途半端」な大きさなのである。

何故か?
それはアメリカの極東軍事政策に関係している。

OKINAWAが痛手をこうむっても本国に大きな影響は及ばない。
予算もOKINAWAの基地の費用は日本政府がまかなってくれる。
痛くもかゆくも無い。

極論すれば「最小限の痛さですむ」可能性が大きい。

世界軍事においてカタカナのOKINAWAが主である。
そこでは沖縄の民や文化も透かし絵の向こう側でぼんやりしている。
僕らにとって「沖縄に基地がある」という文脈で当たり前に
話は進んでいくが

もしかしたら、世界では
「OKINAWAにはアメリカの極東戦略基地がある」という文脈の中で
民の生活はすっぽり抜け落ちているかもしれない。

「中途半端」な大きさ。
それは、
アメリカにとって沖縄が「中途半端な存在」の証左ではなかろうか。


教科書で見る沖縄に点在する基地の多さに惑わされるのではなく
アメリカにとって沖縄は、世界の力学の中で「中途半端」な存在でしかないのだ。

それはこのことも警告する。

ここに住まう沖縄の民の命は宙ぶらりんの浮き草なのだと。


大国の、日本政府のご都合で
僕らは「命を軽く扱われる」可能性に、常に自覚的である必要があると思う。

 

 

才能発見!!

2009-05-18 (Mon) 03:56[ 編集 ]

興奮して眠れない。

昨日、おきでんシュガーホール新人演奏会へと行ってきました。

皆さんの演奏、凄すぎ!
私のような素人にも充分すぎるほど伝わってきました。


そこで二人の若い才能。

高宮城凌君(ヴァイオリン)

新崎洋実さん(ピアノ)

高宮城君のシベリウスは上手すぎ。
北の、氷の、透明な世界がそのまんま入ってきました。
僕もご他聞にもれず、シベリウスにはまってた時期がありまして
特に交響曲を聴いて、内的世界を逍遥したことがありました。

彼の演奏は、今の彼が、自身と向き合いつつ
素直にシベリウスを表現した等身大の
素晴らしいものだったと思います。

とにかく素晴らしい演奏でした。

僕は演奏中「氷」のように固まってましたから。


次に、新崎さん。
特に、2曲目のヴァインのピアノソナタは出色でした。
演奏中、僕の頭ではアルゲリッチならどう弾くだろうとか
グルダなら。。。と考えて、一瞬のシンクロが
「沈黙」の音色を奏でました。
彼女が意図してたかは分かりませんが
僕には「沈黙」が聞こえてきました。

いつか、シューベルトを弾くような、そんな楽しい予感を持たせてくれました。


他の奏者の方も
もちろん素晴らしい演奏でした。
生の演奏の響きは
器械を介して伝わるものとは違います。

一回性の厳しさと暖かさに
心から酔うことができました。

響き続ける。

生ある限り、そうやって
森羅万象
つながりあうのだ。

一人、合点いった
良き時間でした。

みなさん、ありがとうございました。