裾についた泥を拭わない尊い生き様
2021-12-22 (Wed) 05:42[ 編集 ]
僕が普通の59歳ではないことは確かなようだ。脳梗塞の後遺症は気力だけではどうにもならない。
むしろ気力こそが心身を疲弊させる。
二足
右目左目
本来別々のものを
立体的に世界を捉えるために脳で一つだと錯覚させ
わずかなアンバランスの是正の運動が立体を作り出す。
2つのものを1つに統合させているのが脳幹だと僕は理解している。
その脳幹が損傷されたのだから、
1つがもう1つに存在を強固に主張するものだから、
生身の僕はたまったもんじゃない。
だから片目をつぶる。
だから床平面に四肢を投げ出す。
とにかく
起き上がって単純作業をするだけで
アンバランスを是正しようとする作業が脳内で間断(かんだん)なくく自律的に続けられるわけだから、そりゃあ疲れます。
その時は気力で持ちこたえていたものが
オフになった途端、反動でぐったりする。
更に僕にはパニック障害という病気もある。
突然、呼吸のしづらさ、腹部膨満、動悸、交感神経の過剰反応で引き起こされる多様な症状が一挙に押し寄せてくる。
脳梗塞になるまでパニック発作の 死ぬかもしれない はそんなことはない と否定し続けることでやり過ごしてきた。
この死ぬかもしれないの先に見えて不安の対象として脳梗塞を見ていたのだが
実際、脳梗塞とパニック発作とを同時に体験した身にとっては
今
脳梗塞の後遺症状とパニック発作は不即不離のやっかいな1つのもので不安を増幅させる。
なんのために生きるのか。。。
目を細めてかっこつけで未来を見つめるような文句は
どうにもフィットしない。
今、ここ。で、
ハムスターの回し車の如き一途さが僕の生の実感に近い。
そういう意味では動物的人間性に目覚めつつあるのかもしれません。
今を
しっかり生きる。
そこには意図や願いなど理性とは程遠い現実もある。
それでも
肉体的実感を大切に今に没入する。
病気になったら一生懸命病気を生ききり
発作のときもしっかり発作を生きる。
書いてて嘘っぽい感丸出しだが
理屈抜きの命丸投げだ。
この数日間で悲しい出来事が続いた。
神田沙也加さんの死。
心療内科の放火殺人事件によって25名もの尊い命が奪われたこと。
一週間前にはこの地上に確実にあった
風になびいていた26本の命のたすきが、
もうそこにない。
心地よく近くの人をくすぐっていたものが
風にではなく
人に持っていかれた。
白川静の「字通」によれば
命の語義説明はこうである。
令(れい)+口。令は礼帽をかぶって、ひざまずいて神の啓示を受ける形。口は祝詞を収める器の口(さい)。神に祈って、その啓示として与えられるものを命という。天の命ずるところであるから、人為の及ばないところをすべて命といい、君子は命を知るべきものとされた。
人為の及ばぬもの。そこに命の躍動を古代人は見た。
どんなに科学が多くを解明したとはいえ、古代と現代は大して変わらない。
人為とは要は言語によるストーリー化であろう。
その傲慢を厳に戒めたものと捉えたい。
前者は世界から神田沙也加を奪い
後者も世界から尊い多くの個人を奪った。
奪った主体の違いがあるだけだ。
私達は日頃から、この生命への振る舞いが軽すぎる。
自分の解釈というストリーの中のみで他者の命を平準化し消化する。
わかった気になっているが
ただの一人とて
ハムスターの回し車こそが命なのだと気づかない。
そこここで
かしゃかしゃぐるぐるぶんぶん
車が回り続ける音がしないかい?
風が回しているのではないんですよ。
必死で生きているそのものだけの運動が風を起こしているのですよ。
私達は不安を解消するために自分のストーリーという観念の世界に
対象を閉じ込めてきた。
不安と恐怖の違い理解できますでしょうか?
不安は対象化できます。
しかし恐怖はそれができないから冷や汗垂らしてその場にうずくまるだけなんです。
まさに
今、ここ。という現在にしか住所を持たぬ重い現場なんです。
それが僕のパニック発作時の現実です。
そこに脳梗塞のバランスを取り続ける脳の疲労が加わります。
オンは僕の生きる場である仕事であれなんであれ3Dの世界です。
オフは四肢を投げ出せる2D的世界です。精神は3D的世界を遊びます。
オフの時に脳を休ませることを生活者の戦略として行わなければ
がらんどうの頭蓋骨に風が吹き抜けるような、そんな絵も見えてきます。
だから僕にとってオフの時間は無邪気な侵害を拒絶する
命のかかった、命がけの世界なんです。
最後になりますが
僕のように難儀な世界を生きる者にとって
この世界で生きる上で大切な言葉があります。
それは
「助けて」です。
僕も救われますし
言われた人も救われるはずです。
だからこその人類の発展だったんだと思います。
若いときは人に迷惑がかかるからと口にしないようにします。
この年になって思うのは
全くそんなことない。
どんな褒め言葉より
ありがたい、「仲間うち」の言葉が
「助けて」なんだから
SDGsを語り合うほど地球を愛しているのなら
そんな簡単な言葉で人類を愛し育むことができるのなら
大いに使いましょう。
ただ必ずしも人間の知っている言葉ではないかもしれません
耳を澄まして
かしゃかしゃぐるぐるぶんぶん
そんな音が聞こえてきませんか?
ワレンベルグ症候群とパニック障害の饗宴 そして よりよく生きるための考察
2021-08-17 (Tue) 07:21[ 編集 ]

ソラナックスを飲んだのですが
やはり
厳しい。
薬効まで30分の長き綱渡りは
向こう岸にたどり着けない恐怖を対象化できるはずもなく
不安には向き合えても
恐怖はそのまま「私」となる。
動悸
呼吸のしづらさ
口渇
腹部膨満
これらパニック発作の前駆症状に
2年前から脳梗塞後遺症ワレンベルグ症候群もお供してくる。
右眼の強烈な違和感
そのまま頭皮の痺れ
重心が頭部にあるという不可思議な不安定
気を紛らわすために階下に降りたところで
パソコンの不調を思い出して
今やっておかなければこの機械記憶を永遠に失うかもしれないという
切迫感で操作を始める。
再起動
無限ループ状態
OSの起動がないのでBIOSから復帰を試みて
起動したところで
システムの復元を試みたらうまくいった。
ただ、Dropboxno
Officeデータ全破損
このデバイスのみの現象だろうと作業を切り上げた。
発作も手前で落ち着いてくれたよう。
脳幹梗塞
ワレンベルグ症候群
同病の人と話をしたい。
話をしても何も変わるわけではないが
せめて
見つけたい
だけ。
ただ1人でないと安心したいだけ。
でも
仮に会えても互いへの気遣いと共感が新しい何かを生むとは思えない。
むしろ
この容態を知らぬ人が
その想像力で歩み寄ってくれることの方が
未来への、今生きているこの場への前向きな力を発現させてくれる気がする。
知り、合っている(会っている)人同士は油断すると、知った気になって自分との違いがことさら気になって
僕の求める
心地いい距離感
を作れない可能性がある。
期待は人それぞれだからなんだと思う。
期待と現実の感覚の異和が心身を疲弊さす。その場合思いやりの着地点は軟着陸のぬかるみだ。
対して
知らぬ前提でありったけの想像力を働かせて近づいてくださる人には、他生と共にするコミュニティの力動の源泉を感じる。
知らぬ。で脳内完結では何も生まれない。
知らぬ当たり前で相手を前にし、手を差し伸べたり、言葉を発したり。
その動的態度が他生との協同社会の契機となる。
かつての権力者が
「オリンピックに反対するのは反日だ」と発言したり
人の心を読める有名人が
ホームレスという状態に今たまたまあるだけの断片だけでその人生すべての抹殺を是としたり
かつて
障がい者を惨殺した男は
衆議院議長へ、さも気心知れた仲間に語り掛けるように親和性を抱いて手紙を送っている
『君たち自分と違う意見を言うやつらを分断して嫌悪してもいいんだよ』
このネガティブなメッセージを
たかが国民の代表者が何を勘違いしたのか
国民の権力者と化して発信し
その結果、上へ倣えと右え倣えだけの「仲間」との紐帯で心の平安を担保する。
「上」は抽象の観念的世界で実体はないですよ。
「上」のさらに上の「天」からでさえ切れる前提での蜘蛛の糸が垂らされただけなんですから。
私と違うあちら側にも実はそう判断する「私」の影が表裏一体存在しているのですよ。
「上」を無批判で盲信するのはあなたの「個」のみならずあなたの関わる大切な「個」たちの破壊につながることがあります。
よくよく自分とは何であるのか、その実態を人生におけるあらゆる函数と文脈で捕捉しましょうよ。
もしかしたら「私」は存在してない可能性もあり、すべての他生に「私」が溶け込んで生起している夢を見ることになるかもしれません。
最後に
今日授業を共に楽しんだ仲間へのリスペクトも込めて
この言葉で締めたいと思います。
境界とはまだ形をとらない生命の――ニーチェの言葉を借りれば「力への意志」の――住みかなのではないか。
(木村敏「境界としての自己」より)
考え抜く
2021-03-07 (Sun) 13:36[ 編集 ]
考え抜く弓道と一緒だね。
的に当たっても射抜かないと当たったことにならない。
木枠に弾かれることもよくあった。
木枠にぶっ刺さればそれで当たり。乾いたパンと響いて紙の緊張を破るのが気持ちいい。
考えると考え抜くはちがうよね。
彼は少し背中を丸めてたばこをふかしながら歩いていた。彼の口は僕と比べて脳みそとの距離が長かった。僕の方が人様より短いだけかもしれないが、彼は僕に合わせて幾たびもハッとさせることを言ってくれた。
その度に僕は目の前を失って球体のように背後の目を凝らして闇の中に光を求める。
僕を貫くものが中心だと思っていたのに彼を前にすると僕は安心して僕自身を捨てることができた。
大学4回生の時、父が急逝して沖縄での一通りのことを済ませて京都の寿荘に戻った。その頃僕は知人の住まいに居候しており、久しぶりの我が家であった。
その日起きた二つのことが今でも頭を離れない。
一つは「駆ける足音」
2階部屋で荷解きをしていたら
裏階段に向かって小走りにかける足音がする。この部屋に住んで初めて聞く足がけの音だった。すぐにその主がわかった。京都に着いて真っ先に電話した彼女は10日近く連絡もしなかった僕に向かって、ありがたいことに、今でもその雑草を駆ける足音が耳に残っている、駆けてくれたものだった。
顔を見てその表情を見て
彼女も幼い時に父親を亡くして
そこで僕は生まれて初めてのものを見たのかも知れない。
それは
僕の人生で初めての
そして最後の
実父を亡くすという体験に伴う
たった一回だけの空間の共有だった。
その晩、隣の部屋の安達を訪ねた。
慰めてくれた。
ただ当たり前の寄り添いではない。
彼はこう言い放った。
その日僕に起きた二つ目は今でも事あるごとに思い出す大切なものになっている。
「君はいいよな。死に別れて。
僕は生き別れだよ。」
父を亡くして僕はその言葉に救われた。
ただ哀しみの船の乗員ではない。
船を降りて他所の哀しみを思う大切な経験となった。
こんなこともあった。
安達と隣部屋同士になる前だから父の死の一年ほど前だったか。
その頃僕は大学生という身分に甘えて大学で学ぶことより、筋ジストロフィーの患児との交流もあってか、不条理についてカミユやドストエフスキーらと語り合っていた。
たまに顔を出す大学の帰り道に忍ばせたウイスキーを開けてふらつきながら小道をヨタついたり、鳴滝駅近くの川そばの木にもたれかかって嘔吐してサルトルを思ったり、ここぞとばかりに自分自身を相対化しようと苦しんでいた。
酒と本で落ちるとこまで落ちようと僕は一ヶ月あまり誰とも会うことを避けた。
安達に対してもそうで、とは言えさすがに何日も会わないでいると
何故心配して来ないのだ。と恨み節も出る始末。意地になって彼が訪ねるのを待っていたが結局一月後に僕が根負けして彼を訪ねることになった。
彼はいつものようにたばこをふかしながら涼しい顔で迎えた。
この風体が憎たらしい。
開口一番。
「なぜ来なかった?」
軽くなじってみたら、火を消しながら
「行ったよ」
「いや来てないでしょう」
「君の部屋には行ってないけど、毎日電気がついてるか見に行ってたよ」
彼はそんな男なのだ。
そのあと
君が独りでいたいのを邪魔したくなかった。と。
独りには
わざわざ「なる」もんではない。
独りで「ある」か。ただそれだけ。
そんなことを教えてもらった。
今に彼は生きている。
神戸空港に着いた。
さあ、京都に行くぞ。
僕は君の不在を京都で感じない限り
独りである僕にはなれない。
メルカリで勝った京都東寺でしか買えない風信香を手土産に君に会いに行こう。
2人で盛り上がった
香りを互いにまとって
幽界の君に最後の別れを告げよう。
この拙文を安達ひとみさんに捧げる。
Aへ。
2021-02-24 (Wed) 02:50[ 編集 ]
Aも飲みたがるはず。Aさんエスプレッソ好きだったの?
いや好きじゃないと思う。
妻との他愛のない夜更けの会話。
僕がやっとこさ
粒度と粉量を一致させた
その努力の一杯を彼が一番に喜んで飲んでくれると
その光景が昨日からずっと頭を離れず
23杯目で30秒の抽出時間と30mlの濃厚なエスプレッソがクレマの下にねっとりとした重さを持て余し、かろうじて闇に溶け出すのを押し留められている。
Aの不在を僕の生活圏の中だけにすればそれも平穏なんだろうが、一体に僕は何をしに京都に行くのだろう。
彼の永遠の不在を確認する必要があるのだろうか?
僕の中に生きている。
この事実は変わらないが、エスプレッソの飲み過ぎでパニック発作を頻回に起こす僕には死の擬似体験と彼の身体と精神を支配したかも知れない恐怖の刹那か重なってくる。
死までの道程は自らの内を出ることのない解釈の幻想から始まる。いったいいつ幻想は解釈を排した自分ごととしての現実に転換するのだろう。
おそらくそんな瞬間は永遠に来ない。
意識ある限り
言葉の介入がある限り
自分ごとにはなり得ない。
言葉が否応なく他者と作り出す幻想の世界を無限に繰り返す。そしてそれを現実的に現実と了解する。
それはあくまで絶位的自分ではない。
常に環境変数に右往左往する
根無草の自分だ。
僕は僕であって僕ではない。
死者も含めて僕の周りの他者との共同で作り出している
開かれた自分だ。
自分の価値観とか
自分の世界観とか
アイデンティティとか
自分という冠のつくありとあらゆるものは
自分がそう思いたいだけの幻想で
実際は
そんな閉じた実体はない。
死んだその瞬間に
死は他人に支配される。
しかも
生前、彼らが解釈していた延長線でその死をなぞり出す。
そこに正否はない。
解釈が優先される。
生前の自分も彼らの解釈を通した他者のものであり、それは肉体の死を伴っていっそう鮮明になる。
死者は生者に生き
生者は他者と共同の地平を共に開くものだ。
Aよ!
いや
安達よ!
万感の思いを込めて
君にありがとうというしかない。
この僕の身に君が生きていることに
あらためて
ありがとうだ。
今生の友より
良好な三角関係
2019-12-20 (Fri) 16:34[ 編集 ]

社会では三角関係自体、良好もへったくれもあったもんじゃないですが
こと受験国語、特に現代文記述問題における三角関係は極めて重要な着眼であり
正しい解答にたどり着くための第一歩となります。
もちろんその三点は
「作者」「出題者」「自分」です。
何をもって良好となすのか。
必要なことは2つあります。
1つは解答例・解答と称して世間に流布される
サラリーマン講師(もちろん私も)を介入させないこと。
なぜか?
答えは簡単です。「活字の魔力」に思考という知的運動が停滞するからです。
たとえその解説にミスリードがあり、結果導かれた解答であっても
論理という錦の御旗の前に受験生はどうにも動きが取れなくなります。
特に東大の現代文でその傾向が顕著です。
2つ目は上を受けてのことですが
活字にしないことです。
口頭で説明してみるのです。
誰に対してか?
もちろん仮想出題者です。
面接試験と一緒ですね。
そのときに皆さんは単純なことに気づきます。
文章が読めているのか、読めてないのか。
また品性を保つために
口頭で答えるときの大人の嗜みというものもあります。
それは本文の内容を「翻訳」しているのかどうかです。
あえて「言い換え」のアンチとして使っています。
言い換えは形式的で表層的です。
それに対して翻訳はヤコブセンが指摘したように
文化翻訳:特定の文化の「意味」を解釈し、それを他者へ伝達すること。と定義されています。
この定義を受験国語でどのように置き換えられるか。もちろん「傍線部はどういうことか説明せよ」式の問題です。
特定の文脈の「意味」を解釈し、それを出題者へ伝達すること。
文章の場合「意味」を規定するのは「構造」と「文脈」をおいてありません。
良問であればあるほど
部分の文脈の変節点・要点が構造の中で一貫した繋がりの美しさを示してくれます。
構造と文脈。そこで論理という「関係の公式」を使えばいいのです。
今年の東大の問題もその美しさに満ちています。
「カオスの縁」の不動ならざる絶えぬ変化の様態(静中の動)に
科学の目指す不動を重ね、科学による「闇の喪失」を危惧します。
それでも今のところ闇は、私たちに知的探求の契機で有り続けます。
それは「人類にもたらされる大きな福音」であると締めくくられます。
ある生徒が「福音」にこだわりました。
この文脈では人類にとってのこの上もない喜び。と読んで一向に差し支えないのですが、
面白かったので皆で考えました。
キリスト教の文脈で使われる言葉ですから
「神」と「人間」が二重写しになるような表現だ。
ということで落ち着きました。
「神の摂理」さえ世界の一部に取り込まれるのでしょうか?
僕はクリスチャンでもないのですが
「カラマーゾフの兄弟」における『大審問官』で
神が「正しく神の不肖」を指摘した大審問官への返答として口づけしたあの姿にこそ、全ての闇を明らかにする衝動に駆られながら、自ら、ミイラ取りがミイラになる人間の愚かさ、その愚かに立ち止まれない本性への慈しみそのものだったのではないでしょうか?
闇があれば明るくしたい。
形がなければ形を作りたい。
ただし、それを行う人間の存在とそれを可能にする環境こそが
カオスの縁という絶対不安定の中にあること。
そんな自覚を持たずして
何の学問か。とも思いますし、
何の科学か。何の金儲けか。何の人間関係か。
色々と逡巡してると
神の口づけに救いが見出せます。
最後に
9月以来
多少の後遺症に悩まされつつも
どうにか年末までやって来れました。
今通う生徒の皆さんの期待に応えたい。
それだけで今年も暮れます。
あるお母さんと元生徒のお母さんのお二人が
毎週アゴラに来ていただいて掃除をしてくださっています。
先生、これは自分のためにやってるんですから。
何も先生が気を使う必要ないですから。
とても楽しい掃除の時間を過ごせています。
なんとも言葉がないのですが
僕の仕事は
今の生徒さん、いろいろご心配いただく教え子のみなさん
そしてお母さん、お父さん、ご家族。
との縁をいただいて、僕の出来ることをさせていただくことです。
その仕事があるから、どうにか生きながらえています。
自分のためにすること。
ありがたいご縁をいただいたと思います。
という訳で
この通りバージョンアップして
復帰してますので
是非アゴラを気軽に訪ねて下さい。
ここにも
「良好な三角関係」が根付いています。